6月に入ってすぐのことでした。いつも作業をしに来てくれるベテランの大工さんから声をかけられたのです。
「あそこに生えているのは泰山木(タイサンボク)ですよねえ、珍しいねえ」
大工さんが指さす方を見てみると、見慣れた背の高い木が立っていました。背丈はどれくらいでしょうか。2階建ての蔵の屋根よりも高いところで葉を付けています。
艶があって油分を含んでいそうな葉のそばでは、大きくて白い花が咲いています。泰山木はモクレン科に属する常緑高木の一種で、花の香り成分は「マグノリア」という香水として使われているそうです。花の周りには濃厚で良い香りが漂います。
これまでそこに背の高い木が立っているのはもちろん知っていましたが、恥ずかしながら何の木なのかまでは把握していませんでした。この地へ引越してきてからいろいろなことがバタバタと進み、木を一本一本見ている余裕がなかったことを反省しました。
「そうだよな。自分の家の庭なのだから、何の草木がどこに生えているのかくらい、誰かに伝えられないといけないよな」そう感じました。
その点、大工さんは我が家の庭に広がる草木の息吹をとても楽しんでくれました。泰山木を発見してくれましたし、その花の素晴らしい香りも見つけてくれました。また別の日は、蔵の目の前にある水溜めで咲くハスの花を見つけ、喜んでいたのです。
「ここは色んな花があるんだよねえ」と言う、優しい目元の大工さんの表情が忘れられません。
泰山木の花が咲くのは6~7月頃だそうです。ちょうどその頃、蔵の2階に私たちも足を踏み入れることができるようになりました。
とはいえまだ蔵の周囲に設置された屋外用の足場を使って2階へ上がるだけですが。しかしその足場のおかげで、泰山木の良い香りを目線と同じ高さで楽しむことができました。
蔵のリノベーションのことを思い出す時、恐らく「泰山木が咲いてるよ」と言ってくれた大工さんとの会話は一生忘れないと思います。客観的に見たら大きな出来事ではありませんが、花が咲いているのを教えてくれたことは、自分にとっては特別で不思議と胸に刻まれているのです。
そしてその頃「2階に屋外の足場を使って入っていたなあ」と思い出すことでしょう。
ちなみに大工さんは毎朝7時台には現場に到着していて、朝が早かったです。夕方は17時くらいまでいらっしゃいますから、ほとんど終日一緒に過ごしているようなものです。そのため大工さんがいるのが当たり前になってしまって、むしろいない日(別の現場に行っている日)は少し寂しい気持ちになったりもしました。
そういう意味では思い出に、泰山木の会話だけでなく、大工さんのお顔も必ず含まれているのだと思います。